はじめに

脊椎動物は、脊索類まで遡るとすでにカンブリア紀には出現していたが、魚類として繁栄したのはデボン紀になってからである。そしてデボン紀後期の365百万年前(365Mya)から34千万年前(340Mya)にかけて魚類の中の肉鰭類の系統が陸上へと進出した。水圏から陸上への進出に伴い、体を構成する各種器官には大幅な適応変化が生じた。陸棲化に関する百数十年に渡る化石研究、特に近年の移行期の新たな化石の発見と詳細解析法の適用、さらには遺伝子解析を使ったエヴォ・デヴォの研究などにより、陸棲化に関する膨大な知識と情報が蓄積されてきた。その結果、たとえば対鰭から四肢への変遷の解明に見られるように、いくつかの器官の詳細な進化の過程が明らかにされてきている。そして現在も関連情報は急激に増加しつつある。

しかしながら、各器官の多くは様々の器官同士が相互作用しつつ進化してきており、個別器官の進化の詳細過程が分かっても、脊椎動物の陸棲化の過程に関する全体像を把握することはそれほど容易なことではない。

 

ところで、科学的アプローチは、分子生物学における詳細解析に見るように、物事が「いかにして」起きるかを説明するのには有効であるが、「なぜ」という疑問に答えるのにはあまり上手くいっていないとされている。むしろ物理学や化学においては、科学的アプローチは物事が「いかにして」起きるかを説明するために為されるべきであり、「なぜ」に言及することは科学的行為ではないと見る傾向が強い。そしてこの傾向は、進化生物学にもその影響を及ぼしているともいえる。

進化生物学の分野では、「なぜある適応が進化したのか、その理由をあれこれ言うことは容易であるが、間違った理解が生じやすい。自然界の真相を明らかにするのは非常に難しい(スペンサー・ウェルズ パンドラの種)。」という立場をとる傾向が、最近は特に強い。また、「適応論的な説明探しを追い求めることは、外適応であるという事実を見失ってしまう(グールド)。」という強い見解もある。

 

とはいえやはり、「なぜ」という疑問に答えるのは、もっぱら進化生物学と考えられている(三中信宏「進化思考の世界」)。陸棲化の全容を理解するには、「なぜ」に言及する必要があると思われる。

例えば、なぜ鰭が肢へと進化したのかは長いこと議論されてきている。かっては陸上移動のためと考えられたが、現在では草木の多い浅瀬を移動するためと理解されている。一方、例えば陸棲化に際して呼吸法は肺を使った空気呼吸に変ったが、なぜ魚が肺を持つに到ったのかは依然としてはっきりしていない。さらにそもそもなぜ魚類が陸棲化に向かったのかもはっきりしていない。

我々の多くは「なぜ」に興味を持ち、物事を理解するためには「なぜ」への説明を必要とする。さらに「いかにして」に基づく科学的アプローチにより得られた事実を基に「なぜ」に答えていくことは、進化生物学への興味を広めるとともに、「進化論」の誤った理解や適用を防ぐことにもなる。また、解明されてきた多くの「いかにして」をベースに「なぜ」を問うことは、新たな「いかにして」の課題を明確にすることにもなると思われる。

 

 本内容では、脊椎動物における陸棲化の過程の全容を、脊椎動物が肺を獲得したと考えられる430Mya頃から陸上歩行が可能になった340My頃までの期間を中心に、「なぜ」を意識しつつ概観することを試みた。

 第1章では地球環境の変化を中心に、第2章では無顎類から四肢類に到る進化を中心に、脊椎動物の陸棲化に関係して明らかにされた歴史的な事象を述べる。第3章では脊椎動物の体を構成する各種器官の進化の過程を中心に、現在までに得られている知見の概要を述べると共に関連する「なぜ」にも触れる。第4章では、第1章から第3章にまとめた結果を基に、脊椎動物が陸棲化へと向かった経緯を物語風にまとめることを試みた。科学的アプローチの結果から演繹できるいくつかの仮説を入れ込むことで、物語としては整合的にまとめ上げることが出来たと思っている。

 

 なお、本文中では簡単のため、網、亜網、目、亜目などの分類項は使わず、多くの場合肉鰭類、羊膜類、分椎類などのように類で簡略に表記している。

 また、本文作成に当たっては下記の専門書と啓蒙書を参考にすることが多かったが、総ての引用箇所に引用の記載を付けると煩雑で読みにくくなることもあり、既に公知とされる事象に関する箇所では引用の記載をかなり省略している。

 

Janvier, Philippe. Early Vertebrates. Oxford Science Pub. (1996).

Long, John A. The Rise of Fishes. 2nd edition. The Johns Hopkins University Press. (2011).

エドウィン・コルバート「脊椎動物の進化」 田隅本生訳 筑紫書館 (1991).

ニール・シュービン 「ヒトの中の魚、魚の中のヒト」 垂水雄二訳 早川書房 (2008).

アルフレッド・ローマー「脊椎動物の歴史」 川島誠一郎訳 どうぶつ社 (1981).   

カール・ジンマー 「水辺で起きた大進化」 渡辺政隆訳 早川書房 (2000).

ジェニファ・クラック 「手足を持った魚たち」 池田比沙子訳 講談社現代新書 (2000).

奥野良之助 「魚 陸に上がる」  創元社 (1995)

 

私が「進化生物学」の勉強を始めるきっかけを作ってくれた下記の方々に、心から感謝の意を表します。

# 英国サセックス大学生命科学科進化理論研究室David Waxman 教授とJoel Peck 教授:理学博士号を持っていたとはいえまったく分野の違う物性物理が専門であったにもかかわらず、しかも両教授よりもかなり年齢が上の私を研究生として引き受け、研究の機会を与えて頂いた。特にWaxman教授との日々の尽きない議論を通じて、Journal of Theoretical Biologyに論文を掲載出来たことは望外のことであった。

# 英国サセックス大学生命科学科進化理論研究室メンバー:John Maynard Smithのオープンな気風を引き継いで、年齢と学識に大きなギャップがあったにもかかわらず、雑誌会、研究会、昼食会、レクリエーションなどで対等に遇してくれ、英国でのほぼ3年に及ぶ研究生活を支えていただいた。また、研究会、昼食会などでのフランクな会話を通じて、英国大学の智の伝統や雰囲気を味わわせていただいた。

# 慈恵医大岡部正隆教授と岡部研究室メンバー:研究室立上げで多忙であったにもかかわらず、客員研究員として、あるいは研究生として受け入れていただき、エヴォ・デヴォ関連の基礎技術のご教授をいただいた。また、研究生を終えた後も研究会等へのお誘いにより活性化していただいた。帰国後の研究再開と本テーマに取り組む切っ掛けとなった。

# 慶應義塾大学大学院理工学科博士課程教育リーディングプログラム三宅力特任教授:様々の初歩的な、あるいは面倒な質問に丁寧なご教授をいただいた。研究者とはかくあるべきという姿勢を見せていただいた。

# 沼津港深海水族館石垣幸二館長と塩崎氏:シーラカンスに関してご教授いただいた。

 

さらに上記の専門書、啓蒙書以外に多くの論文を参考・引用させて頂いたが、こういった「進化生物学」の分野を構築してきた、構築しつつある多くの研究者の努力と知力には、深い尊敬の念を抱いております。彼らの研究の実り多いことを願っています。

 

2012年9月末 佐藤正純